異快(界)・痛快・不愉快

 『異界の歩き方』という本を読んだ。当事者研究・中井久夫・反精神医学・フェリクス・ガタリなどなど。どれも一冊の本が出来上がるくらいの大きなテーマを、ぎゅっとまとめたお得な幕内弁当のような本だ。

 いや、本書の異界旅行というテーマに寄り添うなら「異界周遊!数カ国ツアー」の方が正確か。ツアーガイド(添乗員)は著者の村澤和多里 村澤真保呂が担当だ。

 この本は、「つながるようでつながらない」「つながらないようでつながる」様々な実践たちを時に丁寧に、時に乱暴につなげていく。まっとうな「医療」従事者であればすぐには肯き難いと感じるかもしれない。ひょっとしたら「不愉快だ!」と思うかもしれない。
 だがそれでいい。おそらく「異界」とはそういうものなのだ。この本に出てくる誰もが「そんなに食べやすいものを出しているつもりはない」と言うだろう。むしろ驚きや反逆性、カウンター性にその本質をもっている。彼らに接したときに感じるその疑問や違和感こそが「異界」の入り口に立ったときに感じる「異快(界)」の香りなのだ。
 
 たとえばブルース・ジャズ・ロックから生まれた音楽たちが、一方でプログレやフュージョンなどロゴス・構築美の方に進んだ。スティーリー・ダンは素敵だが、そこにはもうあの荒ぶる何かはない。
 もう一方の人たちは、それらがもっていた破滅的な粗雑さの方へ進んでいった。パンク・ハードコア・オルタナといった人たちはさらにラディカルな方(本書でいう「異界」の方)へ道を分入った。パラノイアを歌ったバンド「あぶらだこ」さながらだ。

 またその道すがら突如、行き着いたところは「きったはった」のヒップホップだった。ジャズのレコードは切り刻まれ、他のものとつなぎ合わされる。ここにおいて楽器ができなくても音楽ができるようになった。そんなふうにして出来上がった何かは、ときに不愉快でときに痛快だ。「異快(界)」とは、そういうものだ。

ことばの脱領土化を目指して

  この本に貫かれている思想、というか題材となった人たちの企てを私なりに解釈すると「ことばの脱領土化を目指せ」だ。これまで精神科に入院していた人たちはあまりにも、国に、精神科医に、医療従事者に、家族に領土化されすぎていた。彼らは、自分たちのことを自分たちのことばで語るという当然の営みを「科学」や「文化」に植民地化されていたのだ。
 
 おそらく本書に出てくる人たちの多くがその領土化された語りを脱領土化し、当事者自ら、もしくは支援者とともに取り戻そうとしたのだ。統計調査のために作られた言葉などによって領土化されてしまった土地を再び自分達の土地として耕そうというのである。(もちろん、この「脱領土化」ということばですら哲学者のジル・ドゥルーズとガタリが考え出したものなのだから、あなたたちの周りで「脱領土化」したっていい。)

わたくしのプシフォビア

 ところで端的にいって精神病院に働き出したころの私は、臨床心理士や精神科医が嫌いだった。言語新作を許してもらえるなら「プシフォビア」だった。

 何気なくしている会話のなかでも、「それは精神医学でいう〇〇ですね」「それは〇〇といって……」などと言ってくる。ついさっきまで私のなかにあった考えを、お願いしてもいないのに「偉いひと」が考え出した概念に置き換えるのだ。その度にさっきまで自分の考えだったはずが、人の概念に乗っ取られたような気持ちになった。
 ぼやっとしていたはずの考えは綺麗な形になる。だがそれは外からやってきた形なので、全然馴染みがない。よそよそしい。

 そんなことばの領土化を当事者はずっと受け続けてきたに違いない。占領された土地を脱領土化することで当事者は、当事者とその伴走者(これは医療従事者だけを指すのではない)がいる場所でエンパワメントできる。そうしようとするのが彼らの目指したことの一つではないかと思う。
 
 「脱領土化っていってもね、君のそのことば、えらく曖昧ではないか」

 そう言いたくなるひとのこともわかる。だが曖昧なことばも使っているうちに磨かれ「使える」ものになっていく。それこそがプラグマティズム。綺麗な形のことばを外からもらうよりも、曖昧だったとしても自分たちのことばを練り上げるほうがいい。本書をよんでいると、当事者研究の実践のなかで、そうしてことばが練り上げられていったことがよくわかる。
 使えなくなったら、また新しいことばを作るのだ。領土化・脱領土化は終わることがない運動だ。

異快の用法・用量をまもってね

 さて。ここまで書いて最後に「医療従事者」のはしくれとして書いておきたいことがある。
 
 本書は是非、「医療従事者」や「社会で暮らす」のがしんどい人たちに読んでもらいたい。「社会で暮らす」のがしんどい人たちには「世に棲む」ためのヒントとしてどうぞ。

 一方で「医療従事者」においては、この本を読んで彼らの実践に感化され「明日から臨床で使うぞ!」という気持ちになったのであれば、それはそれでよい。

 しかし「用法・用量をまもってね」とは言っておきたい。あなたの感じた(私の感じた)不愉快・痛快、「異快(界)」を大事にしてもらいたいのだ。使う前に、この本について同僚や目のまえの患者さん(当事者さんと言うべきかメンバーさんと言うべきか)と話し合ってもいい。そこからでも遅くはない。
 
 本書でも少し触れられているように、レインやガタリの企ては決してうまくいったわけではないばかりか、本人たちの精神まで破壊することにつながったように思える。勢いよくラボルドを飛び出したガタリは、結局、ラボルドに戻り死ぬまでそこで暮らした。彼が戻ったとき、すでにラボルドでの居場所はもとどおりのものではなかった。

 このような晩年のガタリのエピソードを耳にするたび、寂しさを感じる私がいる。統合失調症を発症したことのない私だが、やはり異界の道ゆきは決して楽なものではない。だからこそ「複数」で散策しなければならない。決して一人で戻ってこれない旅路である。それに私たちはまだ本書で添乗員と一緒に数カ国ツアーに行ったにすぎない。
 
 異快・異界は化学的な薬とは違う意味で人生を、世界を一変させてしまう「劇薬」でもある。だから是非「用法・用量」をまもってほしい。宗教的にマジックマッシュルームを使う場合にも「異界」にいくために必ず羊飼いが必要なのと同じだ。「ゆきて帰りし物語」にするためだ。

「そんな用法・用量なんてどこに書いてあるんだ?」

 とってもいい質問だ。
「くすり」の注意事項はいつも箱のなかの説明書に細かい字で書かれているものだ。

 あなたはあなたにぴったりの伴走者を見つけることができる。あなたの求めているものは当事者研究の本、中井久夫の本、レインの本、ガタリの本、そしてこの本の著者である村澤和多里 村澤真保呂の本のなかに見つけることができるだろう。異界を散策するためには伴走者が必要だ。何せ、あなたは異界の入り口に立ったばかりのだから。異界への添乗員は、書店の本棚にいるのだ。