はじめに

 ジャック・ラカンの精神分析の理論に「4つのディスクール」というものがあります。私の研究する「制度による精神療法」でも特にラ・ボルドクリニックの院長だったジャン・ウリがこの理論を自身の精神療法において重要視していました。

 今日の目的は、みなさんに「4つのディスクール」をわかりやすく解説します!というものではありません!

 え?と思われたかと思いますが、それはラカン派の諸先輩方におまかせしましょう。それよりも、まずウリの関心が、4つのディスクールのどこにあったのかということをお話ししたいと思います。

 結論を先取りしますと、ウリの精神療法的なねらいは「患者さんたちが4つのディスクールを行ったり来たりすることで、その語りの中に「意味」を生じさせることにあります。

ジャック・ラカンの4つのディスクール:超解説

 ディスクールとは、日本語だと「語り」ですが、ここではある特徴をもった「話しぶり」と捉えてみてください。それを主人・ヒステリー・大学人・分析家の4つにわけることができます。

 例えば、すごく賢そうな人をあたまに思い浮かべてください。その人はあなたにこう言います。

「中井久夫によれば、病棟を歩き回って挨拶しているとそのうち病棟の雰囲気は次第によくなる。」

 また別の方を思い浮かべてください。今度は少しあなたが日常生活で手を持て余している人がいいかもしれません。その人はあなたにこう言います。

「なんでみんなは簡単にできることが、私にはこんなに大変なの!?」

 また別の人。今度は少しわがままそうな、他力本願な人。

「ちょっと今日、雨やし車で送ってちょうだい」

 これはどこにでもある「話しぶり」だと思います。これが、ディスクールというものです。

まったく新しいスポーツ「ガニゅら」

 この4つの「話ぶり」には、どれが偉いなどといった考えはありません。どれも大事なのですが、もっと大事なのは、この中を行ったり来たり自由にできるということです。

 もし1つの「話ぶり」しか話せませんというルールで、知らないものについて話さなければならないとしたら、きっととっても変な会話になってしまいます。

あなた:それでガニゅらって何なん? 

賢人:フロイトによれば、ガニゅらというスポーツは無意識の主体をあらためて考え直すきっかけを与えるんだそうだ。

あなた:なるほど。それで具体的にどんなんなんよ

賢人:ウィトゲンシュタインによれば、週に3回、友人とガニゅらをすることによって頭脳明晰になるらしい

あなた:あ、みんなでやるもんなんや。なんか道具とかいるの?

賢人:ジャン・ウリによれば、ガニゅらは生活のあらゆるものを道具として使えるらしい。身の回りの道具を使って……

 もちろんこれは私が今適当に考えた架空のスポーツに関する全く出鱈目な会話なので「なんじゃそら」と思われるのも当然です。もちろんフロイトもウィトゲンシュタインもジャン・ウリもそんなこと言ってません。

 「それでガニゅらって何なん?」と誰かと話したときに、もしその人が、このように「〜によれば」などとばかり言っていたらどうでしょう?

 この人、さっきから偉い人の名前出してるけど、それ誰なん?賢いかしらんけど自分の言葉で話せへん人やな……話すすまへん。

 私ならきっと、こんなふうに思ってしまいます。

話しぶり(ディスクール)が変わることで生じる「意味」

 さっきの会話で賢人は「大学人のディスクール」のみで話しています。別に賢人でなくても、私たちは「おかぁさんが言ってたけど」「学校の先生によると」「AIに聞いたんだけど」など、大学人のディスクールみたいな話しぶりをしています。

 しかし大きく異なるのは、たった1つの「話しぶり」だけで話しているわけではないということですね。大事なことは、「話しぶり」のあいだを移動することなのです。

 たとえばこんな感じならどうでしょう?

「ガニゅらって聞いたことある?私もよく知らないのですが、アイルトン・セナによれば、スペインで生まれた全く新しいスポーツなんです。どうも週に数回、親しい友人とすると健康に良いらしいんです。あなたも一緒にガニゅらをしてもらえますか?でもスポーツが昔から苦手でね、水泳なんか、ほら、平泳ぎですけどね、なんでみんなあんなスイスイ〜と泳げるのかね。僕はどうしても溺れるみたいになってしまうんですね。今度一緒にガニゅらの試合、観に行ってくれない?」

 こんなふうに話すことで「意味」は生じるのです。

 でも一般的に「意味」といったら何らかの言葉に=(イコール)をつけることができるものです。例えば猫=🐈ねこみたいに固定されたものです。でもこれは正確には「意義」と呼ばれるもので、「意味」ではありません。

 意味というのは、1つのものを別のものに置き換えることで生じる「解釈の余地」みたいなものです。1つの話しぶりから1つの話ぶりに移動したとき、「あぁこういうものかな?」と解釈する余地が生じます。

 ですので繰り返しになりますが「どの話しぶりが偉い」などということはありません。問題は、その間の移動なのです。

 「お父さんはいつもあぁ言った話し方をする」「先生はいつもあんな調子で話す」こんなふうに思う私たちもおそらく特定の場面で特定の話しぶりから動けなくなっていることがあるはずです。特に相手との関係が固定されてしまっている状態では。

 そのような硬直した人間関係を柔らかくするために、この「4つのディスクール」を行ったり来たりすることこそ大事なのだ、とウリは考えたのです。

 では、どうやってそれを移動できるとウリは考えているのでしょうか?それはまた別のお話しです。

かずきはしもと

2026.04.3 鹿児島に向かう阪急電車とJAL機内にて